尾野寛明/(有)エコカレッジ・地方創生事業

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海士町の交流ツアー「AMAワゴン」の記録と隠岐島前高校

はじめに

 ここでは、2006~2008年にわたって開催された、島根県隠岐郡海士町(あまちょう)の都市農村交流ツアー「AMA(あま)ワゴン」の記録を書き記していこうと思います。
 「AMAワゴン」というのは、2006~2008年にわたって島根県の隠岐諸島・海士(あま)町で行っていた都市農村交流プロジェクトです。尾野がまだ24歳だった頃のプロジェクトですが、未だにお問い合わせが多いので記録を記しておきます。
 結果として多数の移住者を輩出し離島の高校が再生するきっかけとなりましたが、もともとはハッピ着て「田舎に暮らしませんか」と呼びかける移住対策に大きな疑問を感じていたことからでした。嫌気が差していたといってもいいかもしれません。

「田舎×○○」を組み合わせて特化する

 全国各地で「移住フェア」といった類のものが開催されていて、多くの来場者を集めています。各ブースには魅力を詰め込んだ力作のパネル展示が並び、ハッピを着て懸命にPRに努めるスタッフの姿が見られます。でも、もうそんなのやめたほうがいいと思うんです(※ハッピ着て移住PRに全く意味がないとは言いません。長くなりそうなので別の機会に補足します(→こちら))。
 漠然と田舎暮らしに憧れている層に闇雲に頭を下げて「田舎暮らししませんか」と参加募集するのはもう終わりにできないかと思っていました。

 で、そのためには「田舎×○○」を掛け合わせてテーマをしっかり絞り込む作業が必要だと思ったわけなんです。周囲の田舎体験ツアーを見ていると、どこも「極上の田舎」、ただそれだけを全面に押し出している。確かに参加者も最初は極上の田舎に感動してくれるんですが、不思議なものですぐに慣れてしまうんですね。そして感動した先に「自分の力でなにかに役に立てないか」と思うんです。
 なのに、一方的に凄いでしょと延々と風景を見させられ、多少の相談会や懇親会はあるにせよ、急に住みませんかどうですか・次はいつ来てくれるのと迫られる。駄目な婚活やお見合いの典型例のようなことを平気でやっているんですね。相手だってあなたの力になってあげたいし、どうやったら支えてあげられるか、どうやってお互い協力して生活を築いていくか、共通点を探るのが関係を深めていく一歩ですよね。なのに「私はこんなにすごい」「あなたを幸せにします」ばかり主張されてはたまったものではない、と言えば想像がつくと思います。

 漫然と住んでほしいではなく、どんな人に住んでほしいか。林業の担い手を確保したいなら「田舎×林業」、健康増進や医療従事者に力を入れたいなら「田舎×医療」、ITやテレワークの可能性を広げたいなら「田舎×IT」といった具合に絞ってテーマを提示すべきなんですね。これが絞りきれないと結局「田舎には大きな可能性があります」と冒頭のような話になってしまうわけです。
 絞るということは、その分野について責任持って学びを提供することでもあります。田舎の鳥獣害対策の先端事情を学べた、地域医療の最前線について学びを深めた、地方のテレワーク事情は想像以上に進化しているぞと学びを得て、参加者は初めて満足するんですね。極上の田舎の素晴らしい景色は、あって当たり前でそれだけでの感動は限られているわけなんです。
 そして、「移住するかどうか分からないけれど可能性は感じたから、○○の分野で自分のできる範囲で協力したい」と思ってもらうこと。そして戻った後もそのつながりが細く長く続けば、新しい移住の形がそこから生まれると思っていました。

海士町の「次の一手」

 海士町に通うようになったの2005年頃からでしょうか。師匠の関満博氏(一橋大学名誉教授)から「海士町という凄い町がある、修学旅行で大学を見学してみたいというからゼミで受け入れてやってくれ」という指令が。今では修学旅行でふるさと教育プログラムを取り入れるのは当たり前になりつつありますが、当時としては考えられないことでした。熱心に市民活動に携わる大学周辺の地域住民が参加する中で爆笑と感動のふるさと自慢プレゼンを披露したことで、地元紙(山陰中央新報・2005年6月24日)に「海士中学生、一橋大学で講義」と一面にデカデカと掲載され、大成功に終わったことから交流が生まれました。
 当時、既に海士町は「島まるごとブランド化」と称して産業創出策を講じ、各種メディアに頻繁に取り上げられ、全国的に注目されるようになっていました。そんな中、「一通りの産業創出策はやり終え、あとは実際に運営していくだけ」として、さらに 「次の一手」を模索する動きがおきていました。当時尾野は一橋大学の4年生、毎月のように足繁く通い、 役場の方々と次の一手に関して議論し続けていました。
 どうやらその一手とは隠岐島前(どうぜん)地域に唯一残された高校(隠岐島前高校)を存続させることのようだという結論が見えだしたのが翌2006年。2クラス制だったのが人口減で1クラス状態が続いており、島根県でも廃止が本格的に検討されていました。当時ですら100名近くのIターンを受け入れていた海士町、高校がなくなってしまえばその流れが妨げられかねないという危機感がありました。

離島の教育を考える×ちょっと田舎体験

 都市との交流に力を入れていたこともあり、教育再生に関心のある都市部の若者を呼び込めないかという構想が出来上がります。島の教育を考える2泊3日のワークショップ+ちょっと田舎体験という異色のツアーが発足しました。つまり「田舎×教育」というテーマに絞ったわけなんです。
 2006年、尾野も(奇跡的に)大学院生になり、一橋大学院商学研究科・関満博研究室(当時)と、海士町教育委員会との共催で、東京・大阪と海士町を結ぶ交流ツアーを開催しようということになりました。(研究室と言っても都市側で動いていたのは私だけで、補助金諸々の都合で勝手に研究室の名前を借りていたわけなんですが)
 ツアー名称は、某民放番組の「ラブワゴン」をもじって、「海士ワゴン」はどうだという話に。海士町はよく「かいしちょう」と読み間違えられるので便宜上「AMA」がいいとなりました。予算も限られているので自分で大型免許を取得してマイクロバスを借り上げ、役場職員と交代で運転。名古屋、大阪・・と学生を拾いながら境港を目指して夜行にて約1000キロを駆け抜ける弾丸ツアー。3年間にわたり、派生分も含めて20回以上開催される都市農村交流イベントが生まれました。
 過疎地の教育などというテーマに都市部の若者が興味を持ってくれるかという不安もありましたが、これはとてつもない流れを作れるかもしれないという期待もありました。

僻地教育で都市と農村がつながる

 というのも、教育で世の中を変えたいと思うような若者は当時も多くいましたが、教員や教育政策に携わる職種に就くか、青年海外協力隊として途上国の教育水準向上に奔走するか、教育系の国際機関で働くかといった選択肢しかなかった時代でした。そして、ちょっと教えられる能力がある程度では太刀打ちできない世界でもあり、現地で打ちひしがれる日本人も多く見ていました(=インドのIT企業で働いていた頃に実際に目の当たりにしていた経験が大きかった)。
 そんな中、「日本の過疎地の学校を救え」という命題が示され、なんか凄い島があるらしいから行ってみようと訳も分からぬままギュウギュウのマイクロバスに乗せられ日本海の離島を目指す。極上の田舎体験でまず感動し、そして、教育再生のためにあなた達の力を貸してほしいと言われて感動した若者たちは、多くが海士町の大ファンになっていきました。そして「自分の能力で役に立つことがあれば貢献したい」と何度も赴く若者が生まれ、方や仕事が忙しくて再び行く余裕のない人は都市部で交流会を主催したりと、主催者も想定しない広がりが生まれていきました。
 当時は東京の社会起業家コミュニティに出入りする若者が 「まだ海士町行ったことないの?」みたいな会話が平然となされるような状態で、東京に「海士」と書かれたTシャツ(通称海士T)を着た若者の目撃情報が続出するなど、大変な盛り上がりとなっていきました。

廃校寸前の離島の高校が本当に復活

 島に来たツアー一行は観光もそこそこに、地元中学校または高校で開かれる「出前授業」のプログラムづくりに没頭します。毎回ゲスト講師はいますが、参加者も全員アシスタントとして参加します。若者たちは夜な夜な激論を交わし、毎回信じられないくらいレベルの高い授業が提供されました。ゲスト講師の人たちも離島の高校が存続するためにと惜しみなく知恵を提供してもらい、キャリア教育といったものになかなか恵まれない離島の中高生にとって働き方の考えを深める貴重な機会となっていきました。
 ときには出前授業が終わった後に地域住民向けに「高校維持存続に向けたフォーラム」「地域教育勉強会」といった別プログラムまで組まれてしまい、ツアーは一体どこへ行ったのとツッコミどころ満載の行きあたりばったりな企画でしたが、不思議とみんな大満足していました。見るに見かねて周辺のおっちゃんが「船出してやるから少しは釣りでもして遊べ」なんて助けてもらうことも・・。
 そんな広がりを見せていれば、一定の確率で移住者が現れるのは自明の理でした。教育に関心のある都市部の若手リーダーが続々と離島の海士町に移住し、今では当たり前となった「教育コーディネーター」という謎の肩書が生まれたのもこの頃でした。
 彼らと地域関係者の努力により隠岐島前地域の3町村が連携した「島前高校魅力化プロジェクト」が無事に立ち上がり、多感な高校時代を過疎地で過ごす「島留学」プログラムが発足し、離島でも国公立大学に進学できるサポート体制を提供する「公営塾」が設立。そして離島の高校は今や全国から人を集める人気校となっていきました。

賛否両論

 果たして3年間の一連の企画がどれだけの成果を残したのかは私にもよく表現できません。若者が大挙して押し寄せて、地域コミュニティを散々荒らして帰っただけなのか?はたまた、外の若者に刺激されて地域や学校が活性化されたのか? そんな賛否両論が、山ほど語られました。
 その中で、客観的な話をするならば、延べ500名近くの若者が海士町へ出入りし、20名近くが間接的なつながりから海士町へ定住するに至ります。島根県の定住施策にも少なからず影響を与え、「ふるさと島根定住財団」においては、田舎体験プログラムの一環として「県外発着のバスツアー」を開催した場合に補助金を支給する制度が誕生しました。全国の5府県で同様の施策が導入されたことが確認されています。広島県が首都圏の若者を呼び込んで中山間地域課題解決に一緒に取り組む施策として平成27年度からスタートした『ひろしま里山ウェーブ拡大プロジェクト』もAMAワゴンの仕組みが取り入れられたものです。

 存続危ぶまれる地元の隠岐島前高校活性化にあたっては、2012年より1学年2クラス編成が復活することが決定し、交流戦略の一つの目的であった「交流を通じた島の教育再生」が達成されたことになります。AMAワゴンがこれにどこまで貢献したのかは議論の余地が残りますが、「優れた教育コーディネーター達を外から呼び寄せる」という当初の目的は達成されたのかと思っています。また、AMAワゴンで訪れた外部識者を活用し、島の教育再生を考えるために相当な数の講演会や勉強会が開催されたという点では貢献は少なからずあったと思っています。
 反面、迷惑をかけた人もたくさんいました。参加した若者が連日連夜酒盛りで大騒ぎ、店や宿泊施設ならばまだしも島の集会所やお世話になった島民のご自宅にたまたま呼ばれて、すぐに帰らず延々と騒いでいた。体験プログラムに約束の時間通り現れない、約束の人数が全く違う、など、都会の若者はさして気にしないが田舎では絶対やってはいけないことを端から端まで体現してしまうような有様でした。
 過疎で廃校寸前の高校が、全国・海外からも志願者が集まる学校へ生まれ変わることができた経緯を詳細に記した著作「未来を変えた島の学校: 隠岐島前発ふるさと再興への挑戦」(山内道雄、岩本悠、田中輝美、2015年)が出版され、この中にもAMAワゴンのことが触れられているのですが、尾野の名前は伏せられており、「当時一橋大学の学生が」としか紹介されておりません。悪く言う人も多く、名前を載せられなかったと聞いています。
 と、思いきや、令和元年に海士町が町政50周年を祝う式典を開催することとなり、その際に選定された「町の活性化功績者100名」に選んでいただき、式典にご招待いただきました。これだけでも賛否両論ぶりが感じ取ってもらえるのではないかと思います。

「風の人」になる原点

 当時を振り返ると、よくこんな無茶苦茶な企画が運営できていたものだと思うばかりです。巷の田舎体験ツアーでみられるような「田舎暮らしのすすめ」「起業のすすめ」といった凝ったプログラムは一切なし。
 とりあえず離島にやってきて、うまい魚を食ったら、中学校・高校で出前授業があるから講師と一緒に今晩中に授業内容考えといてという適当っぷり。あとは自分たちで課題を設定して勝手に学んで帰ってといった、本当に高飛車な企画でした。
 それでも毎回のゲスト講師の面々は離島の高校が存続するためにと惜しみなく知恵を提供してもらい、若者たちは夜な夜な激論を交わし、毎回信じられないくらいレベルの高い出前授業ができあがっていくのは楽しいものでした。それは島の教育再生の力にもなったし、多くの若者がそこでたくさんのことを学んだと今でもつながってくれています。
 何とか島の教育を存続させたいんだという海士町の関係者に感銘を受け、 既に全国でも名の知られる地域づくりの最先端地域なのに「あなた達の力を借りたいんだ」と一人ひとりの若者に時間をかけて接する姿に誰もが虜になっていく不思議なツアーでした。バスもあれだけ走らせましたが奇跡的に無事故(高速道路でタイヤのパンクが一回あったくらい)、なにか不思議な力に支えられていたとしか言いようがありません。
 そして私なんかよりよっぽど熱意ある教育再生のリーダーたちが出入りするようになると、そこにいまだ残っていると自分がデカイ顔しているようで性に合わなくなり、出入りする機会が減っていきました。Iターン者で構成される会社(株式会社巡の環)が設立され、島に常駐している人たちの手でもっと丁寧に運営したほうが良いという判断もあり、AMAワゴンは4年目から私の手を離れることとなりました。
 そして、島根県江津市、雲南市と他地域から呼ばれるようになっていきました。この頃から「風の人」と呼ばれることになります。種を運び、芽が出る頃にはいつの間にかどこかへ行ってしまう人ですね。気づけば国の関係人口施策にまで名前が乗るようになってしまいました。AMAワゴンの企画運営は、私自身にとっても、今の働き方を確立させる転換点のようなものでした。

チャンスを提供してやる心構えで

 チャンスは都会だけにあらず、田舎へ積極的にキャリアを磨きに飛んでいく、そんな時代が来ることを確信したのもこのときでした。ツアーを企画していた当初から僻地教育に関して、日本(というか世界)にどこにもない議論と学びがあり、多くの若者を虜にしていきました。東京にいるより何故か日本海の離島にいたほうがよほど情報が集まると、そこに参加した誰もが腰を抜かしていました。そしてその情報量と重力は年々増しています。今の知名度を見れば説明するまでもありませんね。
 志があっても、何千万人いる都会でどんなに頑張ってもせいぜい3軍止まりかもしれない。人口2500人の離島の町なら即1軍。「田舎暮らししませんか」とハッピ着て移住フェアでニコニコしているのがいかに時代遅れか、はっと気づいてくれたらこの上ない喜びです。田舎から○○の分野で「チャンス」を提供してやるぞ、あなたの力が必要だ、学びと成長の機会を提供してやるぞ、どうだ来てみたいと思っただろう。そういう姿勢なら、田舎であっても人を寄せ付けることは可能なんですね。そして、移住者が現れるのは自明の理というほどヨソモノの輪が広がり、関心ある若者が競うように離島を目指していきました。
 そんな「頭を下げない移住対策」に発想を切り替えていくべきだと執念を燃やした東日本大震災ちょっと手前の時代の記録でした。そして、「海士町だからできたんでしょう、他では無理だよ」と詰まらぬことを言い始める大人も現れ、さあどうしたものかと思いつつ呼ばれたところへ流れ着く、風の人としての働き方が本格的にスタートしていきました。

もっと知りたいと思ったら

 新聞記者、テレビなど相当数取材に来ていただいたのですが、ほとんどボツになっています。。このAMAワゴン、見た目の単純さに比べて、イベントとしての仕組みを説明すると非常に難解になるため、ほとんどの方が途中であきらめてしまうようです。
 その中で、参考になりそうなものとして、

1.尾野寛明 『中山間地域におけるコミュニティ活性化と雇用創出 ~自治体戦略としての都市農山漁村交流、島根県隠岐郡海士町を事例として』(一橋大学院商学研究科修士論文  2007年) ・・・当時、ツアーを10回終了した時点でまとめた文章です。開催当時のデータなども収録しています。

2.尾野寛明 「中山間地域振興と都市農村交流」(関満博編『中山間地域の「自立」と農商工連携―島根県中国山地の現状と課題』 新評論、2009年)・・・一橋大学院の研究チームで島根の地域おこしを研究していた際に、1トピックとして執筆したものです。

3.現代農業2009年8月増刊『農家発若者発 グリーン・ニューディール 地域創造の実践と提案』に、「過疎とたたかう古書店、都市の若手と農村を結ぶ人材ネットワーク」として、AMAワゴンの取り組みを寄稿しました。ただの田舎体験ではなく「田舎×教育」など「田舎×○○」の掛け合わせで関心層を取り込んだ運営の仕掛けを解説しています。

4.山内道雄 『離島発 生き残るための10の戦略』 (NHK出版、2007年) ・・当時の海士町長が執筆された本です。ごくごく数行ですが、AMAワゴンのことも触れてくれました。

5.羽鳥 圭 『新事業推進のためのI ターンの支援体制 ~海士(あま)町の地域経営を事例に~』(慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士論文  2008年) ・・・後輩でAMAワゴンの運営などにも携わってくれていた羽鳥君が客観的に論じてくれています。

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